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会社案内:歴史

初代長治郎

書状長治郎は、「鬼押出し」に自然の猛威を今に残している浅間山の大噴火のあった翌年、天明4(1784)年に東福寺で生まれました。
長治郎がもの心つく頃でも、享保、天保ともに三大飢饉に数えられる天明大凶作が尾をひき、各地に領民の騒動がおこり、関東、東北一帯を中心に田畑を見限って江戸に流出する人々が目立って多くなりました。
長治郎も寛政10(1798)年、江戸を目指しました。しかし、時流に身を任せたわけではありません。自然に支配される当時の農業に限界を感じたこともあるでしょうが、それよりも近世中後期になって台頭目覚ましい商工業に生涯の夢を描いたのでしょう。
このため、弱冠14歳で江戸の土を踏んだ長治郎は、菓子の老舗として知られた亀井戸(亀戸)の「亀屋」に奉公、辛い徒弟修行を経て、菓子づくりの心がまえと技能をしっかりと体得しました。 長治郎の優れた人格は、店主が没後も、弟弟子と2人きりで店を支えて、恩義に報いたことにも伺われます。
こうした働きぶりは、亀井戸に上屋敷を構え江戸詰めの須坂藩9代藩主・堀内蔵頭直皓公の目にとまり、文化元(1804)年に「兄弟弟子2人の働きは、まことに健気」の旨の褒詞を藩主から受け、藩邸御用達を仰せつかるとともに、「二葉堂」のもととなる「二葉屋」という屋号拝領の光栄に欲しました。
長治郎は文化5(1808)年、弟弟子に主家の後事を託し、藩主の下向に従って10年ぶりに懐かしい山河に接し、須坂藩御用達の御菓子司として、須坂仲町に「二葉屋」の暖簾(のれん)をかかげ、創業の夢を果たしました。

2代百助

鳴門巻と中華饅頭二代目百助は、菓子づくりに天才的な技能をふるい「二葉屋」の名声がいっそう広まりました。
中でも、百助の手による「鳴門巻」や「中華饅頭」は銘菓としてもてはやされました。十二代藩主堀長門守直武公の献上で賞味した時の将軍徳川家慶公から褒賞御下賜の栄誉にも輝いて、店の名は江戸表にも聞こえたほどです。
百助は、褒賞を受けたのを機会として、屋号を「二葉屋」から「二葉堂」に改めました。ペリーが黒船で浦賀に乗り込んできた嘉永6(1853)年のことです。この屋号が今日まで脈々と引き継がれているわけです。
百助は文政7(1824)年の生まれですから、10歳の頃に信濃一円にも大きな被害を及ぼした天保大凶作、20歳代になってからは弘化4(1847)年の善光寺大地震に遭っています。大地震による犀川筋の山抜け(山崩れ)、裾花川の決壊と善光寺平の大水など、初代と同じように天変地異の恐ろしさを思い知らされました。
とかく、このような“荒れた時代”は人心も動揺したり、荒みがちとなりますが、百助は菓子づくりに情熱を注ぐとともに、「年が若いのに、長患いの老母の面倒を良く見ている」旨の書き付けを直武公からいただいています。

3代盛太郎

開店チラシ3代目盛太郎は父の死去に伴い、幕末争乱のただ中に、母・美弥を後見として7歳で当主となっています。そして、頼りとしていた母も17歳の時に失いました。盛太郎が家業を継いだのは慶應2(1866)年です。その翌年は大政奉還、王政復古の大令がくだった年です。その後は、明治2(1869)年の版藩奉還、同4(1871)年の廃藩置県を始めとして、新しい統一国家づくりを目指して“百御一新”が矢継ぎ早に断行されています。盛太郎は相次ぐ親との死別を悲しむ暇もないほど、おりからの激しい変革への対応に追われました。
こうした激動に時流に身を置いた若い盛太郎にとって、とりわけ大きな打撃となりましたのは、これまで60余年にわたり最も重要であり、店の格も高めてくれた須坂藩が、幕藩体制の崩壊によって昔日の勢威を失い、やがて消滅したことです。
これに加えて、各地で頻発した騒動が明治3(1870)年の暮れ、須坂にも波及しました。須坂騒動では1500人以上の群衆が、堀直明藩知事の説得に耳を貸さず暴動を起こし、約120戸も焼かれたり、壊されました。「二葉堂」も隣家の質屋や十四屋が放火されて類焼するなど災禍を逃れることはできませんでした。 盛太郎は、藩御用達の商法から、活力溢れる須坂を中心とした一般民こそ時代の変化にかかわらず不断の顧客と肝に銘じ商売に励みましたが、明治31(1898)年、39歳の時に家業を弟子の文治に譲り、単身で上京。本郷湯島三組町に「二葉堂・信濃屋盛太郎」の店を開きました。大正4(1915)年、盛太郎は55年の生涯を終えました。

4代文治

40歳の清水文治4代目・清水文治は、明治13(1880)年に上水内郡浅川村清水(現長野市浅川)の清水家に生まれ、同28(1895)年、15歳の時に須坂仲町で店を構えていた3代目盛太郎の弟子となりました。
文治が先代から「二葉堂」の暖簾を突然のように託されたのは18歳の時でした。文治は同32(1899)年に店を上水内郡朝陽村南屋島(現長野市屋島)に移し「和洋菓子調進所二葉堂」として商売に打ち込みました。店とは名ばかりで、民家の物置を改造したものでしたが、母・いとと親子2人で、中華饅頭やカステラを主に懸命に働きました。こうした親子の力を合わせた成果で、文治は数年後に22、23歳の若さで、約120坪の敷地に工場兼住宅を新築し、従業員6名を雇うまでになりました。
文治は次第にカステラに重点を置き、品質向上に力を注ぎました。このため、明治42(1909)年頃から品評会、博覧会、共進会などで賞牌の受賞が多くなり、「二葉堂のカステラ」の名が知れ渡り、ブランドとしての評価を高めました。
文治は、業務拡大によって、大正7(1918)年、上水内郡吉田本町(現長野市吉田本町)にカステラの専門工場を作りました。この時、これまでの練炭や木炭に頼る焼き方を改め、信濃電気(現中部電力)に特別注文して電気窯を備え付けるなど製法の近代化とともに、卵など素材の吟味も厳しくして、「二葉堂」の発展を加速しました。このため、同年11月に陸軍御用達となり、翌8(1919)年7月5日、皇太子殿下(後の昭和天皇)が御来長の際には、カステラお買い上げの光栄を得ました。
時代が移り昭和4(1929)年、長野電鉄・信濃吉田駅が開設(昭和元年)となったのを機に、文治は駅前に本店兼工場や住居を新築しました。
文治は、生産力が向上したことと、昭和8(1933)年の第9回全国菓子飴大博覧会で「棹カステラ」が名誉金賞牌に輝いた実績を契機として、カステラの販路拡大に力を入れました。プロペラ飛行機で宣伝ピラをまくなど派手なパフォーマンスで話題をとりました。
また、文治は盆栽を始めた趣味の人でしたが、当時、菊花展を開催して人気を呼びました。この時代に、現在のメセナ活動のような文化・芸術の支援を行っていたのです。この時、店の広告を折り込んだアルバム式の菊花展冊子を作るなど広告宣伝の面でも先駆者的な役目を果たしました。
昭和6(1931)年の満州事変に端を発した戦火が同12(1937)年の日中戦争に拡大すると、企業整備などによって、直接に戦争遂行に関係のない産業は整備され、多くが転廃業を迫られました。菓子業界は、平和産業のため、当然のように企業整備の対象となりました。長野、吉田、豊野の実績のある5店が1つに統合されることになり、これらの中央に立地していたことと、既述のように整備が整っていたことで、「二葉堂」が菓子づくりの拠点として残りました。文治は同業者の中心として働きましたが、やがて高血圧で倒れ床につく身となり、終戦の年、昭和20(1945)年に65歳で亡くなりました。文治が倒れた後は、妻・りんが同業者の東雲堂(豊野)店主とともに、次第に乏しくなるばかりの材料をやりくりしながら、店を守りました。

5代一雄

吉田本店と従業員5代目・清水一雄は大正8(1919)年、文治の長男として生まれました。第2次大戦を迎え、一雄も戦野に赴きました。幸い、終戦の翌21(1946)年に復員ができ、母が必至の思いで支えてきた「二葉堂」に戻りました。しかし、衣食住すべてにわたっての極端な貧乏で、家業再開にこぎつけるまでには、かなりの年月が必要でした。このため、一雄は化粧品などの小売りで時機を待ち、世の中の復興と落ち着きが見え始めた23(1948)年、待望の家業再開を果たしました。この事業まき直しには、戦時下、企業整備にも存続を許された設備が大きな力となりました。
既に経済統制の緩和も進んでおり、菓子づくりに必須の材料・砂糖も自由販売となり、菓子業界も競争の激しさが目立つようになりました。産業界の活性化に伴い、企業の法人化が全国的に盛んになったのもこの頃の特色でした。「二葉堂」も昭和27(1952)年に株式会社となり、一雄が初代社長に就任しました。従業員約20人を抱え、相応の設備もありましたので、まずは会社としての体裁は、当初から備わっていたと言えるでしょう。
「二葉堂」は「栗まんじゅう」「カステラまんじゅう」で事業再開を世間に印象づけましたが、引き続いて、クリスマスケーキや各種パンを発売し、30年代から40年前半にかけては「杏っ子」「わら駒」(最中)、「雪踏」(ブッセ)などネーミングにもセンスをこらして新製品を出しました。この一方で、「二葉堂」の伝統的主製品カステラについて、製品、販売面で大転換を図りました。こうしたカステラづくりの努力は、やがて権威のある博覧会をはじめ多くの品評会の高い評価で報われ、“カステラの二葉堂”の名を不動にしました。 業務の拡大に伴い、35(1960)年には吉田本店の敷地にカステラの専門工場を新築、43(1968)年には製造部門を独立させて「二葉屋製菓(株)」を設立し、「(株)二葉堂」は販売部門を受け持つことにしました。工場は、性能・安全性を中心とした近代化を図りましたので、38(1963)年に日本食品衛生協会長賞、41(1966)年に厚生大臣賞を受けています。また、44年には第1回の優良申告法人表敬状を受領しています。
このような生産体制の整備と合わせ、直販方式のメリットを大きくするため、経済成長の追い風を受けて、「二葉堂」の目覚ましい出店が始まりました。まず昭和31(1956)年の権堂店のオープンです。この当時は、県下初のアーケード(昭和36年完成)ができる前でしたが、県都随一の繁華街で、とくに40年代“花の権堂”と謳われたピーク時代は、料亭などの需要もあって夜遅くまで店が賑わい、店員は客の応対に追われました。権堂店のあと40年代には、丸善百貨店(現ながの東急)に売場設置、丸光百貨店(現長野そごう)に売場開設など積極的な経営方針による出店が続きました。

6代保男

清水一雄と保男の兄弟は、一雄の先見性と保男の行動力によるがっちりしたスクラムと円滑なリレーが「二葉堂」「二葉屋製菓」の隆盛に大きな推進力となりました。6代目・清水保男は、昭和45年に会長となった一雄から「二葉堂」社長を引き継ぎ、平成3年9月、一雄の死去に伴い「二葉屋製菓」の社長も兼ねました。
須坂の工場、社屋の用地は、同市開発公社の斡旋により、米持地区に昭和43(1968)年から3年がかりで約1800坪を取得しました。建設は48(1973)年のオイルショックで足踏みを余儀なくされましたが、52年に建面積408坪のカステラ・和菓子工場、10年後には166坪を増築して洋菓子工場とし、ここに和洋菓子の製造部門の統合が実現。生産性、製品多角化、品質向上に大きく役立ちました。またこれに対応して、営業本部も設け、製造本部とともに両本部体制となりましたので、直販方式の成果も一段と上がりました。この機構改革に伴って、吉田工場はパン類が中心の製造に切り替わりました。
「何丸」は本社の所在地・吉田にちなんだ名物を開発したいと兄・一雄が同地出身の俳人・何丸に着目して調査、研究。その成果を受け継いで、弟・保男が社長となった翌年に、栗を丸ごと使った打ち菓子「何丸」を発表しました。贈答用などを中心に売り上げを伸ばし、発売から18年、平成元(1989)年、第21回全国菓子大博覧会(松江市)で内閣総理大臣賞を受け、“郷土の銘菓”は全国的にも評価を高めました。